翌朝、6時にイレーネは目が覚めた。「う〜ん……やっぱり、寝心地の良いベッドはいいわね。面接を受けに来ただけなのに、こんな風におもてなしを受けるとは思わなかったわ」ベッドの上で伸びをすると、イレーネは足裏に出来た豆の具合を見た。「……押すとまだ痛いけど、これくらいなら大丈夫そうね」持っていた端切れで手早く足の手当をすると、イレーネは早速昨夜用意してもらったデイ・ドレスに着替え始めた――****――7時約束通り、客室に迎えに来たリカルドと共に2人は誰もいない廊下を歩いていた。「誰もいませんね……?」辺を見渡しながら、イレーネが前を歩くリカルドに尋ねた。「ええ。ルシアン様の言いつけで、この時間他の使用人たちは別の場所で仕事をしています。その……まだイレーネ様を人目につかないように誘導するように言われておりますので」リカルドが言いにくそうに説明する。(どうしよう……気分を害されたりはしていないだろうか……?)心配になったリカルドはチラリとイレーネの様子をうかがう。「なるほど、確かにそうですね。ルシアン様から私のことが正式発表されるまでは、誰にも見られないほうが良いですね」「そうですか? ご理解して頂きありがとうございます」イレーネが全く気にする素振りもなく返事をしたことで、リカルドは安堵のため息をついた。「ところで……イレーネさん」「はい、何でしょう?」「そのデイ・ドレス……良くお似合いですよ?」「本当ですか? ありがとうございます。サイズも丁度良かったみたいです。こんなに素敵なドレスを貸して頂き、感謝しております。後日、きちんとクリーニングしてお返しいたしますね」その言葉に慌てるリカルド。「いえ! そんなことなさらなくて大丈夫です! こちらで洗濯は致しますので」「ですが……それでは申し訳なくて……」「本当に気になさらないで下さい。あ、書斎に到着しましたよ。お待ち下さい」リカルドは扉の前に立つと、ノックした。――コンコン「ルシアン様。イレーネさんをお連れしました」『入ってくれ』扉の奥でルシアンの声が聞こえる。「失礼いたします」リカルドが扉を開けると、すでに部屋ではルシアンがテーブルに向かって座っていた。「おはよう、イレーネ嬢。良く眠れたか?」「おはようございます、ルシアン様……あ、いえ。マイスター伯爵様。
朝食後――イレーネとルシアンは2人きりでリカルドが淹れてくれた紅茶を飲んでいた。「ルシアン様、一晩の宿と食事まで用意して頂きありがとうございました。これから1年間、誠心誠意を込めてお仕えさせていただきます」背筋を伸ばしたイレーネは真剣な眼差しでルシアンを見つめる。「そうか? ではマイスター家の現当主である俺の祖父に会う際は、しっかり妻の役を演じてもらうぞ? 祖父の信頼を得られて、俺が正式な後継者に相応しいと認められた暁には臨時ボーナスに、さらに給金を上乗せしよう」「本当ですか? ありがとうございます! ルシアン様が後継者になれるように私、精一杯頑張ります!」お金の話になると、遠慮が無くなるイレーネ。それだけ彼女は追い詰められていたのだ。「そ、そうか? ……今まで悪いと思って聞かなかったが……ひょっとすると、君はお金に困っているのか?」「え、ええ……そうなのです……お恥ずかしいお話ですが……」イレーネはうつむき加減に返事をする。「まぁ……普通に考えれば、お金の為に契約結婚に同意するような女性はいないだろうな。何しろ離婚歴がある女性は男性からの評判は…落ちるからな。今後再婚するのも難しくなるだろう…」少しだけ罪悪感を感じるルシアン。だからと言って本当の伴侶を持つ気など、彼には一切無かった。「そのような御心配はしていただかなくても大丈夫です。私の結婚のことで気をもむような身内は誰もおりません。もとより、私のような落ちぶれた貴族を妻に望む男性はいるはずもありませんから。第一、私と結婚しては相手の方に借金を背負わせてしまうことにもなりますので」堂々と自分のことを語るイレーネは、ルシアンの目に新鮮に写った。「唯一の肉親を亡くしていることはリカルドから聞いていたが……君には借金があったのか?」「はい……元々シエラ家は貧しい男爵家だったのですが、祖父が病に倒れてからはお医者様に診ていただくために増々借金が増えてしまったのです。なので本当に今回の雇用には感謝しているのです。借金返済の為に、屋敷を手放そうと考えておりましたので。ルシアン様とリカルド様のお陰で宿無しにならずにすみました。本当にありがとうございます」再び御礼の言葉を述べるイレーネ。だが、その話はルシアンにとって、あまりにも衝撃的だった。「な、何?! それでは君は実家を失うということか?
9時―― ルシアンは書斎でリカルドに尋問していた。「全く……お前は、どうして肝心なことを言わない? イレーネ嬢に借金があって、住む場所も無くしそうだということを何故黙っていた?」「申し訳ございません。ただ、こちらは非常にデリケートな話でありまして……私はイレーネさんのマイナス評価になりそうな部分を伏せておきたかったのです。プライバシーの問題でもありましたし。いずれ、ご本人の口からルシアン様に告げられるだろうと思いましたので……」その言葉にルシアンはため息をつく。「……別に、そんなことで彼女の評価を下げたりなどしない。遊んで自ら借金を作ってしまうような女性では無いことくらい、見て分かったしな」すると、リカルドが意味深な笑みを浮かべる。「おやぁ……ルシアン様。もうイレーネさんの人となりが分かったような口ぶりですね?」「な、何だ? その顔は……?」「いえ、何でもありません。ですが……素敵な女性だとは思いませんか? 外見もさることながら、性格も」「……だが、所詮は女だ」ルシアンは視線をそらせる。「ルシアン様、ですが……」「それよりもだ! どういうことだ? 何故彼女があのドレスを着ていたのだ?」「それは、イレーネさんが着替えを持ってきていなかったからです。でもよくお似合いでした。そうは思いませんでしたか?」「そんなことはどうでもいい。俺が言いたいのは、何故彼女にあのドレスを用意した? 他にも女性用の服があるはずだろう?」リカルドを睨みつけるルシアン。「あるのかもしれませんが、女性用の服を管理しているのはメイド達です。彼女たちに用意させられるわけにはいきませんでした。私が準備できたのはあの方が残されたドレスだったからです。その管理を任せたのはルシアン様ではありませんか」「あれは別に保管しろという意味で言ったわけじゃない。全てお前に任せるという意味で託したんだ。そこには捨てておけという意味だってあるだろう?」「そんな……私の独断であの方のドレスを捨てるなど出来るはず無いではありませんか。捨ててほしかったなら、はっきりそう仰って下さい」「……もういい! この話は終わりだ。それで、今肝心のイレーネ嬢はどうしている?」書類の山に目を通しながらルシアンは尋ねた。「はい、『コルト』へお戻りになられました。2日後に必ず戻ってまいりますと話されてお
ガラガラと走り続ける辻馬車の中で、イレーネは窓から外の景色を上機嫌で眺めていた。「もうすぐ、私はこの町に住むことになるのね……1人で行動できるように道を覚えておかなくちゃ。フフフ……それにしても夢みたいだわ。田舎者の私がこんな大都会で暮らすことになるなんて。本当にリカルド様とルシアン様には感謝をしないと」イレーネの心はこれからの新生活に浮き立ち……駅に辿り着く迄の間、ずっと窓の外を注視し続けるのだった。 馬車が駅前広場に到着したのは9時半を過ぎていた。「どうもありがとうございました」御者に馬車代、1500ジュエルを支払うとイレーネは駅前に降り立つ。「昨日も感じたけど、土ぼこりが立たない町というのは新鮮ね。おかげで、お借りしたドレスが汚れなくて済むもの」イレーネは自分の着ているドレスを見ると、次に手帳を取り出した。ここには時刻表が記されている。昨日この駅に降り立った時に、彼女が事前に時刻表をメモしておいたのだ。「今が9時半だから……次の汽車まで後1時間くらいあるわね……どこかでお昼でも買っておこうかしら……あら? あの方は……?」噴水前で、昨日イレーネをマイスター家まで連れて行ってくれた青年警察官が年老いた老人に道を教えている姿が目に入った。「そうだわ、折角なので昨日のお礼を伝えましょう」そこでイレーネは少し離れた場所で、道案内が終わるのを待つことにした。やがて老人は道が分かったのか、お辞儀をすると背を向けて去って行く。「道案内が終わったようね」すると、青年警察官の方がイレーネの視線に気付いた様子で近付いてきた。「あの……もしやあなたは……?」「こんにちは、お巡りさん。昨日はお仕事中なのに、私をマイスター伯爵家まで連れて行っていただき、心より感謝いたします」笑顔で挨拶するイレーネ。「ああ、やっぱりあなただったのですね。見事なブロンドの髪だったので、もしやと思ったのですが。もしかして、今から帰るのですか?」「はい、そうです。でも、2日後にはここに戻ってまいりますが」「え? そうなのですか?」その言葉に目を丸くする警察官。「はい。私、この町で暮らすことが昨日決まったのです。なので、これからまたどこかでお世話になることがあるかもしれませんね? その時はまたどうぞよろしくお願いいたします。お巡りさん」「そうですね。困ったことが
汽車に乗って3時間後――『コルト』の駅に降り立ったイレーネ。「今の時刻は13時半ね……ルノーは弁護士事務所にいるかしら?」イレーネは屋敷を処分する法的手続きをルノーに頼もうと考えていたのだ。「ルノーがいなくても、誰かしらいるかもしれないものね。とりあえず訪ねてみましょう」そしてイレーネは豆が出来た足を引きずるように、ルノーが勤務する弁護士事務所に向かった――**** 駅から大通りを歩いて10分程の場所にルノーが勤務する弁護士事務所はあった。イレーネは扉の前に立つと、早速ノックをした。――コンコン「はい、どちら様でしょうか? え!? イレーネ!?」扉を開いたのは偶然にもルノーだった。「まぁ、ルノー。丁度良かったわ。あなたに頼みたいことがあったのよ」笑みを浮かべる。「イレーネ、な、何故ここに……!? いや、それよりも一体昨日はどうしたんだ? 仕事の終わった後、君の家に行っても留守だったじゃないか。あのとき、どれだけ俺が驚いたと思っているんだ?」ルノーは余程心配していたのか、矢継ぎ早に質問してくる。「待って、落ち着いてちょうだい。ルノー、実はあなたにお願いしたいことがあるのよ」「お願い? 俺に?」「ええ、実は……」その時――「ルノー。誰かお客様なの?」部屋の奥で声が聞こえ、ウェーブのかかったブラウンの髪の若い女性が現れた。「あ! クララ……」ルノーがうろたえた様子で女性の名を呼ぶ。クララと呼ばれた女性はイレーネを見ると眉をひそめて話しかけてきた。「あの、失礼ですがどちら様ですか? ここはジョンソン弁護士事務所ですけど? お客様でしょうか?」「い、いや。彼女は……客ではなく……」「はい、客です。本日は幼馴染のルノーに用事があって、訪ねました」言葉を濁すルノーに代わり、イレーネが返事をする。「え……? 幼馴染……? まさか、あなたはイレーネ・シエラ様ですか?」「はい、そうです。もしかしてルノーから私の話を聞いているのですか?」笑顔でクララに尋ねるイレーネ。「ええ、少しだけなら。……そうですか。あなたがあの、イレーネ様なのですね。それで、一体今日はルノーに何の用があるのですか?」「はい、それは……」そこへルノーが二人の間に割って入ってきた。「イレーネ、実は今急ぎの仕事で忙しいんだ。また今度にしてもらってもい
14時過ぎにイレーネは自分の屋敷に到着した。「やっぱり、馬車を使うと楽ね~。だけど、こんなに贅沢したら今にバチが当たってしまいそうだわ」質素倹約を心がけているイレーネにとって、馬車を使うことはとても贅沢なことであり、後ろめたい気分にもさせてしまう。「でも、これは足の裏に出来た豆のせい……そう、やむを得ずのことよ」イレーネは自分にそう言い聞かせると扉を開けて屋敷の中へ入り、早速荷造りの準備を始める為に自室へ向かった。「とりあえず、まずはこの服を着替えなくちゃね。片付けの最中に汚したり、破いたりしたら大変だもの。きっと今の私には弁償も出来ないくらい高級ドレスに違いないものね」そこでイレーネは衣装箱から自分の粗末な服を取り出すと、早速着替えを始めた――**日が暮れ始めた頃――「ふぅ……荷造りはこんなものかしら?」荷造りを終えたイレーネは椅子に腰掛けると、ため息をついた。彼女がマイスター伯爵家に持っていく荷物はトランクケース2つ分だけだった。一つは今自分が持っている全ての服。もう一つには祖父の形見の品や、2人の思い出の写真。そして数冊の本。「それにしても、持っていく荷物がたったこれだけだったなんて……こんなことなら1日もあれば準備なんて十分だったかしら?」そこまで考えていたとき……――コンコンがらんどうな屋敷の中に、ドアノッカーの音が響き渡った。「多分、ルノーね」イレーネは椅子から立ち上がると、玄関へ向かった。扉についているドアアイを覗き込むと、やはり訪ねてきたのはルノーだった。「いらっしゃい、ルノー」イレーネは扉を開けた。「良かった……今日はちゃんといてくれたんだな? 本当に昨夜は驚いたよ。訪ねても君がいないんだものな。驚きで心臓が止まるかと思った」「大袈裟ね、ルノーは。どうぞ入って」クスクス笑いながらイレーネはルノーを屋敷に招き入れた。「それで、俺に大事な話って何だ? いや、その前に昨夜一体何があったんだ? どこにいたんだよ」椅子に座るなり、ルノーは矢継ぎ早に質問してくる。「ルノーはせっかちねぇ。はい、まずはお茶でもどうぞ」イレーネは淹れたての紅茶をテーブルに置くと、自分も向かい側の席に座った。「あ、ああ。ありがとう」気を落ち着かせるためにルノーは紅茶を口にする。「ルノー。あなたは私の幼馴染であり、弁護士で
「け、結婚て……ウッ! ゴホッ! ゴホンッ!!」あまりにも驚きすぎたルノーは紅茶を飲んでいたことも相まって、激しく咳き込んだ。「大変! 大丈夫? ルノー!」イレーネは慌ててルノーの背後に回ると背中をさする。「イ、イレーネ……結婚するって……どういうことなんだよ?」ルノーはイレーネの手首を握りしめた。「ルノー」「何だ?」「もう咳は治まったの?」「ああ、お陰様でな。だから話を聞かせてくれ」「ええ。分かったわ。でもその前に……」「何だ?」「手、離してもらえるかしら?」イレーネはにっこり笑った――**――30分後「つまり……君はメイドの求人を見て、マイスター伯爵家を訪れたものの、そこの当主に見初められて、結婚することになったと言うわけか?」青白い顔で、左手を額にあてたルノーがため息をつく。「ええ、そうなの」「その話、嘘じゃないんだろうな?」ルノーはニコニコと笑みを浮かべているイレーネの目をじっと見つめる。「ええ、嘘では無いわ。その方は私にこう、言ったもの。『君は完璧な存在だ!』って」リカルドに言われた言葉を少々脚色して伝えるが、ルノーは明らかに不審な目を向けてくる。「どうも怪しいんだよな……弁護士の俺に嘘はつかないほうがいいぞ?」「ええ。分かっているわ。だって嘘なんかついていないもの」そう、イレーネは嘘はついていない。ついていないが、本当の話でもない。「……分かったよ。それでイレーネは出会ったばかりのマイスター伯爵の求婚を受けたって訳だな? しかも、すぐにでも結婚する約束をして?」「そうなの。私が借金を抱えていて、住む場所を失ってしまうところだと説明したの。そうしたらとても心配してくれて、すぐにでもマイスター伯爵家に嫁いでくるように言われたのよ。だから今日は荷物整理と屋敷を処分する為に帰って来たの」「イレーネ! ちょっと待ってくれよ! もしかして、その伯爵と結婚するのは住む場所が無くなるからなのか?」ガタンと音を立てて席を立つルノー。「落ち着いて、ルノー。まずは座ったら?」「……」不満げな表情を浮かべながらも、ルノーは席に座った。「とにかく、もし結婚の決め手が住む場所を失うからだって言うならそんなこと心配する必要は無い。俺の実家で暮らせばいいじゃないか? 父さんも母さんもイレーネのことを歓迎するぞ?」「ル
イレーネの古びた屋敷に美味しそうなクッキーの香りが漂い始めた頃……「イレーネ、頼まれていた家具を全てリビングに移動しておいたよ」作業を終えたルノーが台所にいるイレーネの元へやってきた。「まぁ、ありがとう。ルノー。お仕事もあったのに、力仕事までさせてしまって。でも丁度良かったわ。今クッキーが焼けた頃なのよ」「うん、美味しそうな匂いだな……荷運びはそれほど大変なことじゃ無かったさ。何しろ、この屋敷には家財道具はもう殆どなかったからな。昔は……もっと色々な物があったのに」しんみりした表情を浮かべるルノー。「ルノー。あなたがそんな顔すること無いわ。確かにこの屋敷にはかつて、色々な物に溢れていたけど……。でもかえって思い出の品を残してここを去る方が寂しさを感じるじゃない?」「そうか、やっぱり寂しさを感じるんだな? だったら『デリア』に行くのは考え直せよ。俺の実家で暮らそう。それで……モゴッ!」途中でルノーの言葉は塞がれる。何故ならイレーネが焼き上がったクッキーをルノーの口の中に押し込んだからだ。驚いて目を見開くルノーにイレーネは笑う。「はいはい、話はそこまでよ。どう? クッキーは美味しい?」口の中にクッキーが詰まったルノーは返事をすることが出来ずに、コクコクと頷く。「フフフ……それなら良かった。それでさっきの話だけど、答えは『いいえ』よ。私はマイスター伯爵様と結婚するの。これはもう決定事項よ。第一婚約者がいる幼馴染の家で暮らせるはずはないでしょう?」「だから、まだ彼女は婚約者じゃないって! 上司が勝手に自分の娘を俺の婚約者にしようとしているだけなんだよ!」クッキーをゴクンと飲んだルノーが反論する。「そう? でも少なくとも彼女はそんな風には思っていないようだし、何より2人はお似合いに見えるわ」「お、お似合い……」その言葉にショックを受けるルノー。「とにかく、私がマイスター伯爵と結婚することは決定事項なの。この屋敷を売って借金を返すこともね。だから信頼するルノーにお願いしているのよ」イレーネはじっとルノーを見つめる。「う……わ、分かったよ! 分かったから、そんな目で見るなって。全く……仕方ないな。俺の知り合いの不動産屋を当たって、できるだけ高く売却してもらえるように頼んでやるよ」髪をかきあげながらため息をつく、ルノー。「本当? ありが
イレーネがマダム・ヴィクトリアの店を出たのは15時を過ぎていた。「まぁ……もう、こんな時間だったのね。どうりでお腹が空いたはずだわ」祖父の形見である懐中時計を見ると、イレーネはため息をつく。「どうしましょう……このままマイスター家に戻っても、夕食までは程遠いわね。それにしても試着するだけなのに、こんなに体力を使うとは思わなかったわ」1日2食の生活は慣れていた。ただ、今回は慣れない試着作業でお腹を空かせてしまっていたのだった。「何処かで軽く食事を済ませてからマイスター家に戻ったほうが良さそうね。何か食べるものを用意して下さいなんて言ってご迷惑をかけるわけにはいかないし」本来であれば、イレーネはルシアンの内定の妻。リカルドに軽食の要望を伝えれば、すぐにでも食事を用意してもらえる立場に自分があることを理解していなかったのだ。「さて、今度は食事が取れるお店を探そうかしら」そしてイレーネは鼻歌を歌いながら、マダム・ヴィクトリアの店を後にした――****16時半――「……はぁ〜……」書斎で仕事をしていたルシアンがため息をつく。「ルシアン様、またため息ですか? 既に7回目になりますよ? お茶でも飲まれてはいかがですか?」ルシアンにお茶を勧めるリカルド。「リカルド……」「はい、何でしょうか?」「お前は何回俺に茶を飲ませようとする? もうすでに5回目になるぞ?」恨めしそうな目でリカルドを見る。「やはり……おひとりで行かせるべきではなかったのではありませんか?」その言葉に、ルシアンの肩がピクリと動く。「一体、何の話だ?」「とぼけないで下さい、イレーネさんのことですよ。あの方のことが心配で、仕事もろくに手がつかないのではありませんか? 先程から同じ書類ばかり目を通されていますよ」「ち、違う! 書類を見直していただけだ!」リカルドに指摘され、慌ててルシアンは書類を取り替える。「全く、ルシアン様は素直になれないお方ですね……正直にイレーネさんのことが心配だと言えばよいではありませんか? だから本日は外出せずに、こちらでお仕事をされているのですよね? 昼食の時間も心、ここにあらずといった様子でしたし」するとルシアンも言い返す。「そういうお前こそ、イレーネ嬢のことが心配でたまらないのではないか? 今日は用もないのに、何度もエントランスまで
「まぁ! この小切手は……! は、はい! すぐにお包みいたしますね!」「お買い上げ、ありがとうございます!」2人の女性店員はペコペコと頭を下げる。「いいえ。こちらこそ素敵なドレスを選んでいただき、ありがとうございます。このお店に来て、本当に良かったですわ」笑顔のイレーネの姿に、青ざめるのはブリジットとアメリアだった。「ええっ!? ど、どういうことよ! あんな貧乏そうな女が平気で小切手を手渡すなんて!」アメリアがブリジットに小声で詰め寄る。「そ、そんなこと聞かないでよ! 私が知るはず無いでしょう! それにしても……あの女、一体何者なの……だけど……」気の強いブリジットは、店員たちがイレーネにペコペコする姿が気に入らない。「……何だか面白くないわ。これ以上ここにいても不愉快よ、帰りましょう。アメリア」「え? いいの? 彼女に一言も声をかけずに帰っても」「いいのよ。だって私たち、あの女の名前だって知らないじゃない」フンと腕組みするブリジット。今もイレーネは女性店員たちと親しげに会話をしている。「言われてみれば確かにそうね……それじゃ、帰りましょうか?」「ええ、帰りましょう」そしてブリジットとアメリアは談笑するイレーネたちに声をかけずに、店を後にした。もう少し店に残っていれば、もっと驚きの事実を知ることになったはずだったのに……。そんなことは露とも知らず、店員はイレーネに次の商品を勧める。「ところで、お客様。ドレスだけではなく、他にも靴やアクセサリーも当店でそろえられてみてはいかがですか?」「ええ、そうです。当店には有名なジュエリーデザイナーに靴職人も抱えているのですよ?」上客を逃してなるものかと、店員たちの接客は続く。「そうですね……一式、全て揃えられるならこちらでお願いします。私、どうしても自分の価値を上げなければならないので」頷くイレーネ。普段の彼女なら絶対にこのような買い物はしない。しないのだが、今回だけは特別だった。何しろ、ルシアンの祖父に認めてもらうために自分の価値を上げなければならないのだから。「ええ! お任せ下さい!」「私たちの手にかかれば、トップレディにだってなれます!」何とも頼もしい女性店員の言葉にイレーネは笑顔になる。「本当ですか!? ありがとうございます!」こうして、その後もイレーネの買い物
試着室へ入ると、早速イレーネは採寸するために肌着姿になった。すると、2人の女性店員が口々にイレーネを褒め称えた。「まぁ! こんなに細いウェストを見るのは初めてだわ!」「手足も細いのに、足には適度に筋肉がついているし……これなら高いヒールの靴を履いても歩けそうだわ!」「筋肉よりも、スタイル! なんてスタイル抜群なんでしょう! これならコルセットも必要ないくらい!」2人の女性店員は興奮が止まらない。けれど、イレーネのスタイルが良いのは当然のことだった。何処へ行くにも歩いていくし、質素な食事生活をおくっていたのだから。2人の女性店員がイレーネのスタイルを褒め称えている姿をブリジット達は悔しげに見ている。「な、何よ……あんなの。た、ただちょっと細いだけじゃないの……」「だ、だけど出るところは出て、引っ込んでる部分はちゃんと引っ込んでるわよ……」しかし、ブリジットは意地悪そうな笑みを浮かべてアメリアの耳に囁く。「でも、あんな貧しそうな女にこのブティックの服が買えるはずないわ。身の程知らずでこの店に来たのだから、恥をかくに決まっているわよ」「そ、そうよね。買えるはず無いわよね。値段を聞いて驚くあの女の顔が見ものだわ」コソコソと話し合う2人をよそに、店員によるイレーネのドレス選びが始まった。「どうです? こちらのドレスは今最先端のドレスですよ。特にウェストの細さを強調できるドレスです」「こちらのデイ・ドレスはとても上品なデザインです。バッスル部分が特徴なのですよ」次々と着せ替え人形のごとく、様々なドレスを試着させられるイレーネ。しかし、そのどれもがスタイル抜群なイレーネに良く似合っていた。当然、ブリジットとアメリアは面白くない。「ふ、ふん。いくらスタイルが良くたって、買えなければどうにもならないのだから」「ええ、そうよ。あの店員達ったら、ドレスを合わせるばかりで肝心な彼女の懐事情を忘れているのかしら」その後もイレーネの試着は続き……12着目の試着を終えた頃――「あの、もうそろそろこのあたりで大丈夫です」イレーネが女性店員2人に声をかけた。「え? さようでございますか?」「まだまだお客様にお似合いになりそうなドレスが沢山ありますのに……」女性店員たちは残念そうな表情を浮かべる。「ええ。それで今まで試着したドレス、合計でおいくら位
ブリジットとアメリアが揃って店に入ると、2人の女性店員がすぐに駆けつけてきた。「まぁ、これはようこそお越しいただきました」「本日もドレスを御覧になられるのですね?」女性店員達は交互にブリジットとアメリアに話しかける。「ええ。そうだけど……でも、ドレスを選びに来たのは私たちではないわ。彼女よ」 ブリジットは背後にいるイレーネを振り返る。「は……? こちらの……女性ですか……?」「冗談ではありませんよね……?」メガネをかけた女性店員はクイッとフレームをあげてイレーネを見つめる。「はい、冗談ではありません。本気で、こちらのブティックでドレスを買いたいと思います。何しろ、こちらはマダム・ヴィクトリアという一流デザイナーの方がデザインしたドレスなのですよね? 一流のドレスは着る人を選ぶことは無い、一流だからこそ、誰にでもぴったり似合うドレスを作れるのですよね? 是非、私のような者でも着こなせるドレスを選んでいただきたいのです。こちらのお店で!」イレーネはキラキラ目を輝かせながら、熱く語る。そんな彼女に圧される4人の女性。「ま、まぁ……確かに、マダム・ヴィクトリアはこの町一番のデザイナーではありますが……」「そうですね。一流の店は、誰にでも似合おうドレスを提案できるからこそ、一流なのかもしれませんし……」自分たちの店を一流と褒められ、女性店員たちは気を良くしている。「折角来店されたのですから、選んでみましょうか?」「そうですね、試着だけでもいいかもしれませんね」そこで女性店員たちはイレーネに提案してきた。「本当ですか? ありがとうございます!」笑顔でお礼を述べるイレーネ。「ええ。ではどうぞ奥の試着室でまずは採寸いたしましょう」「ご案内いたしますね」「はい」イレーネは女性店員に連れられ、試着室へ向かう。そしてそんな様子を唖然とした目で見つめるブリジットとアメリア。「ちょ、ちょっとどういうこと……てっきり断られるかと思ったのに」「単なる貧しい女だと思っていたけど……中々口が上手いわね……」ブリジットとアメリアはコソコソ話しだした。「ブリジット、私たちはどうすればいいのよ? 何だかおかしなことになっちゃったわね。もう帰る?」「何言ってるのよ、アメリア。これからが面白いんじゃない。どうせこの店のドレスは高くて手が出せない。買え
「さぁ、ここがこの町一番のブティックよ。どう?」ブリジットが両手を腰に当て、背後にいるイレーネに声をかけた。「まぁ……! なんて大きなブティックなんでしょう。それに、沢山のドレスが並んでいますね」イレーネはガラス窓から店内を覗き、感嘆の声を上げる。「それはそうよ。このブティックは私たちのような貴族しか買えない高級ドレスばかりなのよ。何と言っても、ここはマダム・ヴィクトリアのお店なのだから」ブリジットの連れの黒髪女性が自慢気に語る。「マダム・ヴィクトリア……? そんなに有名な方なのですか?」「あなたって、本当に何も知らないのね? まぁ、そんな貧相な服を着ているのだから知るはずもないでしょうけど。マダム・ヴィクトリアの作ったドレスは今若い貴族女性たちの間で流行の最先端をいってるのよ。彼女のドレスを着るだけで、自分の価値を上げられるのだから」その言葉にイレーネは目を丸くするす。「そうなのですね? 自分の価値を上げられるなんて……素晴らしいです。決めました、私もこのお店で服を買うことにいたします。ご親切にアドバイスをいただき、どうもありがとうございます」お礼を述べるイレーネに、当然ブリジットと連れの女性は驚いた。「は? あなた、一体何を言ってるの? マダム・ヴィクトリアは一流デザイナーだから、それだけドレスの値段が張るのよ? あなたみたいな貧乏人が買えるはず無いじゃないの! 店内に入っても追い払われるだけよ」黒髪女性が目を吊り上げる。するとブリジットが止めに入った。「いいわよ、それじゃ私たちが一緒にお店に付き添ってあげるわよ」「え? 何を言ってるの? ブリジット」「落ち着いて、アメリア」ブリジットは連れの黒髪女性、アメリアの耳元に囁く。「どうせ、彼女は店に入ったところで追い出されるに決まってるわ。だから私たちが付き添って店に連れて行くのよ。どうせお金なんか持っていないのだから買えるはず無いじゃない。彼女に恥をかかせて、身の程を教えてあげましょうよ」「なるほど……それは面白そうね?」「ええ、でしょう?」2人の令嬢がコソコソ話をする様子を、イレーネは首を傾げて見ている。「話は決まったわ。私たちが一緒にお店に行ってあげるわよ。ついてらっしゃい」ブリジットがイレーネに声をかけた。「本当ですか? ご親切にありがとうございます。正直、私一
「しかし……本当に一人で出かけてしまうとは……」ルシアンは2階にある書斎の窓から、イレーネが門を目指して歩く後ろ姿を見つめてため息をつく。「ええ、全くイレーネさんの行動には驚きです。馬車まで断るのですから」リカルドの顔にも心配そうな表情が浮かんでいる。「だが、馬車を出すように命じるにも……説明できなかったしな……早いところ全員に彼女を紹介しなければ……」しかし、あくまでこれは1年間の契約結婚。そんな相手を使用人たちに堂々と自分の結婚相手だと説明しても良いものかどうか、ルシアンは悩んでいた。「もう、事実は伏せて結婚相手だと伝えるしか無いのではありませんか? それに……」「それに? 何だ?」途中で言葉を切ったリカルドにルシアンは尋ねる。「いえ、何でもありません。さて、それでは外出準備を始めましょうか?」「ああ、そうだな。先方を待たせるわけにはいかないからな」ルシアンは立ち上がると、書斎机に向かう。その姿を見つめながらリカルドは思った。ひょっとすると、この結婚は本当の結婚になる可能性もあるのではないかと……。**** その頃、イレーネは――「どうもありがとうございました」辻馬車で駅前に到着したイレーネは馬車代を支払うと、『デリア』の町に降り立った。「本当に、この町は『コルト』と違って大きいわ……」辺を見渡せば、大きな建物が綺麗にひしめき合っている。町を歩く人々も大勢いた。「さて、ひとりで町へ出てきたのはいいけれど……洋品店は何処にあるのかしら」キョロキョロと周囲を見渡す。「町へ出れば、何とかなると思ったけど……交番で尋ねてみようかしら……」そこまで言いかけ、首を振る。「いいえ、迷惑はかけられないわ。自分で何とかしましょう」そしてイレーネはひとりで洋品店を探すことにした。**「まぁ、なんて美味しそうなケーキ屋さんかしら。あら? あの店は本屋さんだわ。あんなに大きい本屋さんがあるなんて、流石は大都市『デリア』ね」あれから30分程の時間が流れていた。今や、イレーネは本来ドレスを新調するという目的を忘れて町の散策を楽しんでいた。「あら? ここは雑貨屋さんかしら?」ショーウィンドウにへばりつくように、窓から店内の様子を伺っていると女性たちの会話が近づいてきた。「それでこの間ルシアン様に会いに行ったのに、外出中で会えなか
それからきっかり1時間後――イレーネはリカルドの案内でルシアンの書斎にやってきていた。「イレーネ嬢、わざわざ足を運ばせてすまないな」書斎に置かれたソファに向かい合わせで座る2人。「いいえ、どうぞお構いなく。丁度暇を持て余していたところでしたので。いつもなら庭で畑作業をしている時間でして……お恥ずかしいことに時間の潰し方を良く知らないものですから」「な、何だって? 畑仕事?」その言葉に耳を疑うルシアン。「はい、そうです。食費を浮かす為に家庭菜園をしておりました。幸い、庭がありましたので季節ごとに様々な野菜を育てていたのですよ? 今の季節ですと、玉ねぎ、人参が収穫できます。採れたての野菜は甘みもあって、とても美味しいんです」「そ、そうだったのか……?」傍らに立つリカルドはハンカチで目頭を押さえている。「……うっうっ……ほ、本当に……なんて健気なイレーネさん……」その様子を半ば呆れた眼差しで見つめていると、イレーネが声をかけてきた。「あの、それで私にお話というのは?」「あ、ああ。そのことなのだが、イレーネ嬢に支度金を払おうと思って呼んだのだ」「まぁ……支度金ですか?」イレーネの目がキラキラ輝く。「そうだ、そのお金で服を新調するといい。さて、何着あればいいだろうか……?」「3着もあれば十分です」「な、何!? たったの3着だと!?」「はい、外出着は3着もあれば十分です。勿体ないですから。普段の服は私が持ってきたもので十分ですし」「イレーネ嬢、それは……」ルシアンが言いかけるよりも早くリカルドが反応した。「いいえ! それは駄目です! イレーネさん! 3着と言わず、その10倍……いえ、100倍は作るべきです!」「何だって!? 300着もか!?」これには流石のルシアンも目を見開く。「まぁ! 300着ですか? いくら何でも300着なんて無謀です。本当に、最低限揃えてもらうだけで十分なのですが……」遠慮するイレーネにリカルドは畳み掛ける。「イレーネさん。マイスター伯爵家は、とっても大金持ちなのですよ? 何しろ世界中に取引先がある貿易会社を営んでいるのですから何の遠慮もいりません。欲しいものはどんどん仰って下さい!」「お、おい……! リカルド、お前は一体何を勝手なことを……!」そこまで言いかけた時、ルシアンはこちらをじっと見つ
食後の紅茶を2人が飲み終わる頃、ようやくリカルドがダイニングルームに戻ってきた。「リカルド、お前は今まで一体何処に行っていたのだ?」ルシアンがじろりと睨みつける。「はい、それが……厨房に顔を出して、2人分のお食事を用意して貰いたいと伝えたところ……その場にいた使用人達に囲まれてしまいました。それで、イレーネさんのことを根掘り葉掘り尋ねられてしまって……」「何だって……それで何と答えたんだ?」「そ、それは……」リカルドは興味津々の眼差しで自分を見つめるイレーネに視線を移す。「私の口から無責任なことを伝えるわけにはいかないので、ルシアン様から後ほど直接話があるので待つように伝えました」何とも無責任な台詞を口にするリカルド。ルシアンが切れたのは言うまでも無い。「リカルド! それでは俺に全て丸投げしているも同然じゃ……」そこでルシアンは口を閉ざす。何故ならイレーネがじっと自分を見つめていたからだ。女性の前で声を荒げることをしたくないルシアンは、ゴホンと咳払いをするとリカルドに命じた。「リカルド。イレーネ嬢は紅茶を飲み終えたようだし……ひとまず今は部屋に案内してあげてくれ。そうだな……1時間後、俺の書斎に来て欲しい。まだまだ話し合わなければならないことが山積みだからな」「はい、かしこまりました。私が責任を持ってイレーネさんをお部屋までご案内します」笑顔で返事をするリカルドにルシアンは釘を刺す。「言っておくが、お前にはまだ言いたいことが残っている。イレーネ嬢を部屋に案内したらすぐにここへ戻ってこい」「はい……」落ち込んだ様子で返事をするリカルド。そこへイレーネが会話に入ってきた。「ルシアン様、私なら大丈夫です。部屋の場所は覚えているので1人で戻れます」「いや、しかしだな……万一、リカルドのように使用人に捕まってしまえば……」ルシアンは言葉を濁す。「そのことなら御安心下さい。私、こう見えても口は固いです。何か問われても、ルシアン様から伺って下さいと伝えますから」「そ、そうか……?」引きつった笑いを浮かべるルシアン。(やはり、2人とも……俺に全て委託するというわけだな……)「分かった。では申し訳ないが……イレーネ嬢は一旦席を外してくれ。リカルドと2人で話をしたいからな。そして1時間後、今度は俺の書斎へ来てくれないか」「はい、ル
(何だか……今朝は随分給仕の人数が多いな)ルシアンはダイニングルームで給仕をする使用人たちを見渡した。普段なら給仕の人数は1人、ないし2人。それなのに今朝に限っては違った。2人のフットマンに、3人のメイドまでいるのだ。全員、明らかにイレーネを意識しているのは明白だった。「紅茶はいつお持ちしますか?」メイドがイレーネに尋ねる。「そうですね、ルシアン様はいつお飲みになっておりますか?」突然話をふられたルシアンは戸惑いながらも答えた。「え? 俺は普段は食後にもらっているが?」(あのメイドは何故そんなことを聞いてくるのだ? 普段は何も言わずに食後に紅茶を淹れてくるはずなのに! 大体、どこで俺とイレーネ嬢が朝食を一緒にとることがバレてしまったんだ? リカルドは何をしている!)一言、リカルドに文句を言ってやりたいところだが肝心の彼は生憎不在だ。(くそ! ここ最近、勝手な真似ばかりしおって……後で呼び出して説教してやらなければ……!)ルシアンのどこか落ち着きのない様子をみて、イレーネが首を傾げる。「ルシアン様、どうかされたのですか?」「え? あ……何でも無い。ただ……何故、今朝に限ってこんなに給仕が集まっているのか不思議に思ってな」その言葉に、使用人たちが一斉に肩をビクリとさせる。「もう、全ての料理を並べ終えたのだろう?」傍らに立っているフットマンに尋ねるルシアン。「は、はい。ルシアン様。食事は全て提供させていただきました」「そうか……なら、お前たちはもう席を外してくれ。彼女と2人きりで食事をしたいからな」ルシアンはゆっくり、全員の顔を見渡した。「分かりました……それでは我々は一旦席を外させていただきます……」使用人たちはチラチラとイレーネに視線を送りながら、ダイニングルームを出て行った。――パタン扉が閉じられるとルシアンはため息をついた。「全く……好奇心旺盛な使用人たちだ。さて、それでは食べようか」「私も好奇心旺盛ですよ? それにしてもこのマイスター家には大勢の人たちが働いていらっしゃるのですね。私の働く隙もないほどです。……まぁ! 本当にこちらのお食事は美味しいですね」料理を口にし、笑みを浮かべるイレーネ。「そうか、口にあって何よりだ。だが、メイドの仕事は考えないでくれ。君の役目は俺の妻を演じることなのだから。実は……